三場所を並べる ― 動画・ブックス・同人
二〇二六年九月・三場所比較(動画・ブックス・同人)
冷えた煎茶をすすりながら、机の上に三つの刷り物を広げてみる。残暑の湿り気が肌に残る部屋で、動画とブックス、そして同人という三つの番付を見比べる作業は、隠居した老人の手慰みとしては贅沢すぎるほどに賑やかだ。かつて江戸の町人が相撲や吉原の格付けに一喜一憂したように、現代の人々もまた、無数の名が並ぶ表を眺めては自らの欲望のありかを確認している。大関から十両、そして幕下へと連なる階級の文字を眺めていると、それぞれの世界がどれほど異なるエンジンで動いているのかが、数字の偏りを通じて鮮やかに浮かび上がってくる。老眼鏡を押し上げて三つの紙面を見渡すと、そこには人間が求める快楽の縮図が幾重にも折り重なっているのが見える。
動画の番付を眺めると、ここは人の名で回る世界であることがよく分かる。最上位の大関には属性を示す言葉が鎮座しているが、関脇や小結、そして前頭三枚目にあたる六位には「瀬戸環奈」という女優の名が堂々と並び、数多の女性名がこの巨大な市場を牽引している。集計によれば四十人以上の名がひしめき、ランキングの上位から下位まで、生身の演者の顔ふれが求心力を持っている。相撲の番付に倣った一枚刷りの中で、人々は構造化されたジャンルの海から、特定の個人の名を探し出して拍手を送る。これは江戸の役者評判記において、役の大小よりも誰がその舞台に立つのかという名跡に客が熱狂した構造の、現代における見事なまでの継承ではないだろうか。数ある属性の背後に確固たる個人の名が光ることで、この場所はただの欲望の捌け口ではなく、スターを愛でる華やかな舞台へと昇華されている。
視線を隣のブックスの番付に移すと、今度は作家の名が中心を占める別の生態系が顔を出す。こちらの大関にはふたなりやNTRといった強力な状況を示す語が陣取っているが、前頭二枚目にあたる五位にはねぐりえという作家の名が食い込み、二桁を超える作り手たちが番付を賑わせている。動画が演者の顔や身体を前面に出すのに対し、こちらは物語を編む者の名がブランドとして機能し、読者はその筆致や偏愛の方向性によって棚の品を選ぶ。江戸の昔、吉原細見が遊女屋と遊女の格を細かく定めて客を導いたように、このブックスの番付もまた、無数の描き手の中から誰の屋号を頼るべきかを指し示すものとなっている。名前という一点に情報の密度が集まることで、人々は迷うことなく自らの好みに合致した細やかな世界へと迷い込むことができるのだ。
さらに三つ目の同人の番付を広げると、ここに至って主役は人の名から原作の名へと完全にその座を譲る。上位の大関や関脇にはお馴染みの属性や状況が並ぶものの、中位には二次創作の原作名を示す言葉が大量に陣取り、数多の物語の枠組みそのものが市場を動かしていることが分かる。ここでは個人の作家の名よりも、共通の原作という大きな器の中でどれだけ見立てが遊ばれているかが勝負の分かれ目となる。さらに奇妙なことに、この番付では同じ意味を持つ語が伏せ字の有無によって離れた位置に並んでおり、十三位の席と八十位台の席に似たような文字がひっそりと佇んでいる。これは言葉の微細な揺らぎや禁止の網目をくぐり抜けようとする人々の知恵の痕跡であり、江戸の絵師たちが名を禁じられたときに判じ絵を用いて抜け道を作った歴史の、滑稽で愛おしい反復に見えて仕方がない。名を隠されてもなお、同じ欲望の形を別の衣を着せて描き出そうとする執念には、もはや天晴れと言葉を漏らすほかない。
これら三つの場所を貫いて見えてくるのは、数字の偏りが描き出す人間の切実なまでの選び方の癖である。動画が女優の名で個を愛で、ブックスが作家の名で趣向を買い、同人が原作の名で群れをなすというように、媒体が変われば集まる言葉の温度もまた微かに変化する。しかしどの番付を眺めても、そこには秩序と無秩序の絶妙なバランスがあり、人々は常に自らの欲望を何らかの階級に当てはめて安心したいという欲求を抱え続けている。統計の数字を追っていくと、私たちはただ無数のコンテンツの海に溺れているのではなく、その中に自分なりの序列を見出すことで、広大な荒野に小さな方則を見出しているのだということがよく分かる。老眼鏡を外し、冷め切った煎茶を一口含んでから再び紙面を眺め直すと、現代の人々が織りなすこの賑やかな格付け遊びは、かつての江戸の町人が見せた文化の遊戯となんら変わらない人間臭さに満ち満ちている。
喜多川歌麿の『寛政三美人』を思い浮かべると、絵師が実在の町娘たちの名を画面に記して世間の目を釘付けにしたように、現代の番付のあちこちに散りばめられた名前や原作の影もまた、人々が誰かの存在を指し示すことでしか熱狂できないという人間の一途な性根をあぶり出している。動画の女優も、ブックスの作家も、同人の原作も、すべては名を与えられ、序列という名の土俵に上げられることで初めて眩い光を放つのであり、私たちはその見事なこじつけの構造の上で踊らされているにすぎまい。もちろんこれは私の強引なこじつけにすぎないが、欲望の数だけ番付が立ち、そこに名が刷られる限り、世の中は決して退屈にならないということだけは確かである。結局のところ、人は常に何らかの名を上位に掲げ、その背中を眺めながら生きることでしか熱狂の温度を保てないのだ。
書斎の隅にある柱時計の針が静かに時を刻むなか、手元に残された数々の刷り物をもう一度一枚ずつ丁寧に折りたたんでいく。机の上にぽつんと置かれた番付個票を老眼鏡の端でそっと検分しながら、今日のところはこのあたりで筆を置くことにしよう。